昭和56年12月10日 月次祭 (末永信太郎)
・・・に引き続いての今晩のお祭りでございますから、参拝になった方、まあ、お疲れだったろうと思います。その、この時間にゆっくり間に合うように、おくり合わせを頂きました。帰り道々、私は車で迎えに来てくれてましたから。その、筑後川の堤防を通らせて頂きながら、それこそ、昼を欺くような、今日は満月のようなお月様がこう、未納山にかかってます。
それを眺ませて頂きながら、話した来たことでございますけれども、どこを旅行し、どこに参りましても、この未納連山ぐらい素晴らしい山ないなあ、と。また、下を流れる筑後川ぐらい雄大な流れの川って、珍しいなあ、と言うて来たことですけれども。朝晩見ておりますと、それが当たり前のようにありますけれども、例えば、なら福岡から岡山辺りまで汽車で旅行いたしましても、こんなに素晴らしい山やら川やらはないえすよ。本当に、この未納連山とこう言うが、まあ、一名屏風山とも申します。
ちょうど、屏風を立てたような山に、ね、言うなら山を合楽教会はバックに、それこそ南に連なる未納山。北を流れる筑後川、と。中にくっきりと、光輝く道がある。これは、合楽音頭の一節ですね。南に連なる未納山、下を流れる筑後川、中にくっきりと光り輝く道がある。私はどうでも、もちろん合楽あってのことなのです。ね。中に、この道に合楽教会があって、この道が光り輝く道として、全世界の人にも分かってもらえるようなおかげを頂きたいと思います。
今日、金光から福山まで、車に若先生が便乗して参りました。で、古川の方へ金光青年の編集をしております方が訪ねて参りました。もう、二回にわたって、合楽の紹介を致しております。初めのは大変素晴らしい記事でした。それから、今度の二回目のは、私どもの方の子供達、いわゆる、若先生、光昭、幹三郎、栄四郎、と。いわゆる、合楽で言われる士農工商が4人でその、記者の方を囲んで対談をしておる模様が出ております。皆さんも、お買い求めになってお読みになっただろうと思いますけれども、私はこの目が薄いから、こんなに目が薄いので読んでもらいました。
どうも、読みよってから、もうそんくらいで止めとかんの、ちゅうごたる感じなんです。身を入れて聞きよると、ところどころに、チカッとこう、何か光るようなものを感じますけれども、4人の子供達が話しておる、その話し振りとか、話の模様がです、まちっと何とか表現のしようが、話し様がありはしなかっただろうかと思われるように、貧しい文章になってるんです。
けれども、やはり合楽の、まあ、話をしとりますから、ところどころには、やっぱその気になって聞きよると、はあ、なるほど合楽だなあ、と。こう、ピカッとヒカッとこう、光るようなものをその中に感じますけれども、とにかく筑後弁の丸だしで話しておるのを、それをまた、丸だしにそのまま、記事にしてありますから、非常に読み辛い。また、聞いとって聞き辛い、と言うて、まあ、今度の記事のことをもう話し合ったんだそうです。ところが、その川辺という方なんですけれども、それが先生、反対に非常に評判がいいですち、今度のは。どげんところが評判がいいですかち。
とにかく、4人の息子が揃うて親の信心に傾倒して、ね、それに打ち込んでおる一人ひとりの話の模様を聞いておったら、他に類がないと言うて、その、かえって評判がいいですよ、と。なるほど、文章はまずいけれども、ね、言うなら合楽の信心、親先生の信心を芯にして、4人の子供達がそれぞれの信心、また立場で話しておる。だから、かえってこの、受けておるような感じだということだった、ということを金光から福山までの車の中で話すんです。
ほお、何がおかげになるじゃ分からんな、と言うたことでした。ほれは、二遍ぐらい、三遍なっと読み直さなきゃ分からんです。もう、筑後で、私どんが聞いとったっちゃ分からん。「そげなこつばっかり言うたっちゃ」ちゅうごつ、(言うたっちゃち?)あちらに書いちゃるから。
(笑)本当、どういうこっじゃ分からん。ね。ところがやっぱり、この前のが素晴らしかったもんですから、ね、またその中から、その素晴らしいものを、やっぱ意欲を持って読むと、まあ、良い。ところどころにピカッと光るようなものを、私感じたんですけれどもね。車の中で、若先生が話します。
まあ、いろいろ、まあ、本部の方達と話してみてです、合楽で言うておるように、ね、教祖金光大神の御信心というものが、ね、前代未聞とか、開闢以来とか、宗教以前の宗教とかと、これはもう、合楽でなかなきゃ使わない言葉なんですけれども、そういう風に思うておる教団人、または信者がいないて。
はあ、とても仏教じゃかなわん、キリスト教にゃとてもかなわん、と。それは、教典一つとっても、そんなに、まあ、金光大神の信心というのは、金光教というのは、まだ幼稚なんだという風にしか頂き止めていない。合楽では、もうそれは、(なんて?)我が物宝で、私が話しておると言うなら、これは別ですけれども、私がいよいよ、ね、宗教以前の宗教だ、と。ね。
もう、だから皆がお釈迦様とか、キリスト様という人は、もう絶対の人のように思うておるところに間違いがあるんだ、と。合楽理念を頂きよったら、もう、絶対の人達じゃないんだ、と。教祖金光大神は、その上というのじゃなくて、もう、限りないものへの、人間が幸せになって行くための道を説かれたのが金光大神だ、と。ね。だから、こういう( )もう、ないのだということをです、今度、私は御本部参拝をさせてもらって、奥城に皆で出ますから、奥城に、教祖様の奥城の前に、もう座らせて頂いた、まだ拍手も打たない、座らせて頂いた途端に、ちょうどあの、お芝居なんかをご覧になると、大向こうから声がかかるでしょう。ね。何々派!といったような声がかかるです。
もう、ああいうようなタイミングです。あれは、タイミングを外したら( )ことも出けませんし、また、舞台を邪魔するですから、あれは非常に高尚な人じゃないと、あの声を入れること、入れられないですね。いわゆる、舞台に邪魔にならんように、いや、舞台がむしろ引き立つように。ね。何々派!という役者の屋号で、まあ、大きな声を入れるも、こんなお芝居の時に、声があれは、拍手ぐらいは出るにしましてもね、あの声がかかるというのは、日本のお芝居だけだと思うんですけれどね。
そんな感じです、素晴らしいタイミング。私が座った途端に、それこそ大向こうからね、「世界一!」という声がかかったんです。もう、自分の耳を疑うようにビックリしました、今日は。ね。どういうことなのだろう。ね。いよいよもって、それこそ南に連なる未納山であり、下を流れる筑後川。雄大な筑後川を前に、ね、もう、またとこういう、その、未納連山のような山というのは、滅多にないような山をバックに、中に一筋はっきりと光り輝く道があるという、ね、この光り輝く道にさせて頂く、言うならば、その、基礎というか元ともなるもの。それが、合楽理念だと思うんです。
そして、私のことをお礼を申させて頂いておりましたら、ね、今、合楽で説かれておる御教えというものは、もう過去、んなら、金光教がはじまって百年の間にもなかった、と。ね。これからとても、こういう御教えはないという、まあ、意味のことを頂いたんです。ね。ですから、私の言うならば、まあ、表現がまずいか、まだ頂きの足りんのかも分かりませんけれども、確かにただし、まあ、前代未聞の教えではあるな、と。今まで、かつて聞いたことがなかった。ね。
本当に人間が幸せになることの為にある、教祖金光大神の御教えである。その御教えを、いよいよ、それを深く広く、しかも、それを実験実証しながら現しておる、また、伝えておるのが今日の合楽であり、または合楽理念なのである。ね。言うならば、前にも後にも、もう、こういう例えば、今、私が皆さんに聞いて頂いとるようなお話というものは聞けないだろう、頂けないだろう。
と、まあ、皆さんが思うて下さって、また、それを確信して下さって、いよいよ、その実験実証に、いよいよ信心を向上させて行かなきゃいけません。ただ御取次を頂いて、お願いをして、おかげを頂くと言うならば、過去百年の信心の中にもあった。今日も、私は奥城のお礼を済ましてから、皆さんに聞いて頂いたことでしたけれども。ね。
金光教の只今、もう、再来年は百年を迎えることになります。ね。その、言うなら信心によって、まあ、おかげを頂いて来た。まあ、様々におかげを頂いて来た。私どもも、まずおかげを頂いて、御神縁を頂いておったおかげで、今日がある訳なんですけれども、それはただ、一心に御取次を頂いてお願いをし、ね、お願いをしておかげを頂いて来た。まあ、分かりやすく言うならば、教祖のお言葉を借りるならば、ね、わが心に神がござるから、おかげになるという信心であった。わが心が神がござるから、おかげになる。
それは一心不乱に、ほれはもう、本部辺りでも、まだ奥城辺りでも、それこそ(膝元?)が割れやせんじゃろうかちゅうごと、こうこうやって拝みよる人がありますよ。昔は、私どもあげんじゃったがなあ、と思うて思います。ほれはもう、こっから血の出るように大払いをあげてですね、しかも、五巻も十巻もどんどんあげて、もう、あげりゃあぐるほど、おかげを頂くごと思うとった。ね。
だから、なるほど自分の一心は出るのです。だから、その一心は出るから、わが心に神がござるから、おかげになった訳なんですね。御祈念、それでしなきゃ、いわば気が済まなかった。もちろん、そういう御祈念がいけないことじゃない、御祈念も大事、一心不乱に拝むことも大事だけれども、合楽では、ね、それこそ和賀心がおかげを呼ぶ。
言うならば、天地日月の心ということは、言うならば、ね、此方が祈るところは天地金乃神と一心なりと言われる。天地の心を自分の心とするような精進をさせて頂きますから、私の心が天地の中に入って行く。いわゆる、天地人一如の世界を目指して、合楽の方達は信心のけいこをしておる訳なんです。そして、ことがあっても、問題があっても、それを和の心で受け止めて行く。3~4日前、妹が、椛目の妹が参って参りましてから、今日、御祈念中にこういう頂いたと言う。ね。
「和すれば、乱れることなし」と頂いたて。和すれば、乱れることなし。ね。どういう事柄に出遭っても、問題であっても、それに和して行く、そん中に入って行く。それが、天地の中に入って行く心なんです。その、どのような事にでも和して行けれる心なんです。ね。
それを反対で、普通から言うならば、腹の立つ問題か、あるかも知れません。ね。自分の侮辱したということになるかも知れません。ね。けれども、そういう中に入って行けれる心、心が乱れない。それは、和賀心の和であり、和して行けば乱れることのないという、そういう精進をさせて頂きながら、ね、いわゆる、天地人一如の世界を目指させてもらう。ね。
そこから生まれて来る実験実証である。先ほど、池田先生が今日、前講をおかげを頂いてました。親先生が言われる実験実証というのは、そのまま力になるのです。実験実証、それがそのまま、力になるのです。だから、日々、この実験実証を、言うならば踏まえた上にも踏まえた信心生活にならなければいけないという意味の話をしてましたですね。たしかに、そうである。
実験実証とは、そのまま力です。合楽の御教えを実験する。それは、そのまま天地日月の心であると同時に、天地人一如の世界を目指しておるのです。ね、そういう精進がなされなきゃいけない。それにはね、お互いが神様へ向けて傾倒すると言うかね、神様に一心になるということは、神様に傾倒するということ。
こと信心にかけては、言うなら変人ぶりを発揮でけれる私どもにならなければいけない。先ほど、ある方が、ちょうどもう、御大祭が近づいて参っておりますのに、その頃ちょうど、その大忙しい仕事を依頼されたと、こう言う。ね。それはもう、どがしこ依頼されても構わんけれども、ね、16日の日だけは、私は出けませんよと、もう言いきれれる信心なんです。
ね、だから、どうぞおくり合わせが頂けますように、おくり合わせを頂いたら、16日の御大祭にもお参りが出けますから。いかにも、それですずめが立っとるようだけども、そんなもんじゃないです。16日というのは、言うならば、合楽の報徳祭です、年に一回の報徳祭です。四神様、または、三代金光様の御大祭です。ね。ですから、たとえどういう、のっぴきならない事情やら問題がそこにあったにしても、それを一蹴して来れるだけのね、私は信心がいると思うですね、信心には。ね。
例えば、御本部参拝をするでしょう、もう、これはもう、絶対なこと。もう、親先生が、例えば、なら四回なら四回の御大祭が、もう、これだけは絶対、どんなことがあってもお供するんだと( )かかって、どういう問題があっても、お金がなかっても、借金してでもお参りするんだと決めておく、といったような信心なんです。信心にはそういうね、ものがいるんですよ。
おくり合わせを頂いたらお参りしましょう、といったようなことでは、言うならば、それこそここの道を、光り輝く道にするような実験やら実証。または、そういうものを現して行くことは出けないと思う。いかに合楽、合楽と言うてもです、合楽の信奉者の一人ひとりが、そういう言うなら力とも光ともなるものを頂いて、初めて光り輝く道ということになって来るんです。ね。
2~3日前の朝の御理解に、とにかくね、もう、本当、病的なまでに、神経質なまでに、こと神様に限ったら、思いを寄せる、傾倒するということがいるんじゃないか、と。私が北京時代に、近所に看護婦会があった。そこの看護婦さんで、古賀さんという方でしたが。もう、いつも手は真っ白になっとった。それが、その、家の前に消毒液が置いてある。
もう、そして、もう、出入りする度に手を消毒して出る。ね。やっぱその、何ち言うでしょうかね、黴菌の恐さを知ってるわけです、看護婦さんだから。ね。それですから、もう、その、消毒をしなければ外出もしない、また、外から帰って来たら必ずこう、手を洗うとる。もう、手はいつも、もう真っ白になった。そんな人がありました。ね。久留米の石井さんの話をしました、もう亡くなられましたねえ、石井さん、おばあちゃん。あそこの嫁御、香さんて言いよりましたが、もう、他に言うことはなかですばってんから、もう、白菜でん、沢庵でん何でん、熱湯をかけにゃ婆しゃんが食べらっしゃれんげな。
もう、だからもう、これには閉口するという意味のことを言うたことを、聞いておったことがあって、話のような話だと思うておったんです。ね。ところが、昨日でした。川上さんがね、福岡の、お参りしてみえて、もう、昨日の御理解はもう、本当、あん、ご親戚に病院が何軒かあるんですね。その従兄弟さんに当たられる方で大きな病院をしておられる方。もう先生、あの通りで、もう、私の方のその何々というお医者さんはですね、もう皆ですが、ね、先ずお金が入って来るでしょう、(こんこ?)は全部、消毒液の中に全部ダボーッとつけちしまう。(笑)ね。
札は、その一部屋が決めてあってから、そこにズラーッと消毒してから貼んなさる、壁に。貼んなさるだけじゃない、それがね、それこそ乾いて、ひらりひらりと落ちて来るとだけしか使わんげな。(笑)はあ、まあ。上には上があるもんだなち言うちから、昨日、福岡の川上さんの従兄弟さんですよ。ね。
それはやっぱ、お医者さんですから黴菌の恐さを知っちゃるわけですよ。だから、硬貨も全部消毒液の( )使わっしゃらん。ね。私は、ここんところを聞きながら、素晴らしいなあ。
こういうような信心をお互いがさせて頂くように、なら、その黴菌の( )じゃないですよ。ね。壁に貼っといてね、それが乾いて、ひらりひらりと落ちて来る。それだけしか使わん、という。甘木の親先生なんか、そうじゃったじゃないでしょうかね。それこそ、1円の金を使うでも、百円の、自分のことに使う時に、百円のお金を、同時ですよ、今の百円と違う、を使うような思いで使うたと果せられる。
神様の前に百円のお金を使う時には、それこそ1円のお金を使うような思いで使わせてもろうたと、先生が仰せられておったということを聞いたことがあります。まさしく、その通りです。ね。もう、ちらり、それこそ、ひらりひらりと落ちて来る。もう、本当に自分に与えられた物だけしか使わんちゅうわけ。ね。
私はね、おかしな話のようですけれどもね、そういうくらいの、金銭なら金銭物なら物に対してでも、本当に御物であり、ね、神様の言うならばお下がりであり、事柄においても、神様の言うなら私に下さる御事柄として受けるということは、そういうくらいな神経が使われなければ、実際は分からんのではないでしょうか。ただ、漠然と合楽理念を聞いたり、何ごとでん自分の都合のよかとこだけには御の字をつけて、御事柄とこう言う。今日、車の中で、若先生が今、親鸞の本を読ませてもらってる。
もう、それこそ大変にやっぱり修行をした方ですけれども、亡くなられるまで、もうそれこそ、どろどろの言うなら人間社会にあって、その、信心を求め続けて、そして、けっきょくは言うなら、与えられるものも与えられずして亡くなって行った方だ、と。
晩年にはお金にも不自由をされた。お手がけさんのことを、どうぞよろしゅうお願いしますと言うて、ある方にお手紙を出された手紙が残っておるそうですよ。ね。ですから、まあ、仏教者の中には、親鸞上人というのは、もう、瞑想(でんの中に)入ってない訳です。妻帯したんだ、女を持ったからという訳なんです。ね。そういう中にあって、それこそ愛欲の海に浮き沈みとしながら、今まで過去何十年間、自分が語って来たことは、みんな空事だというように、まあ、自分というものをギリギリ極めて行った方らしいですね。
だから、私はそのことが、話を聞きながら車の中で、もし親鸞上人様が合楽理念を聞かれたら、もう本当に、もう、この世で極楽に行っておられたであろうになあ、と言うて言うたことでした。
合楽理念とは、そういうように素晴らしいんです。ですからね、過去の宗教者、宗教家、いや、過去の金光教では、誰も言うて来なかったことを前代未聞と、私は言ってるんです。ね。または、開闢以来と行っておるのです。宗教以前の宗教とも言ってるのです。だから、本当にそうなんだと、皆さんがね、皆さんが確信して下さらなければいけんのです。ね。
あるキリスト教者が、ね、もう、それこそ沢山な(ご本?)も現された方、何とか観音さん、あ?内村さんですね、なんかが亡くなられる時に、もし自分がキリスト教を知らなかったならば、もちっとマシな、人間らしい生き方が出けとったであろうのにというのが、晩年の言葉だそうです。ね。
ですからね、もう、釈迦とかキリストとかというのが、もう絶対のもの( )に違いはないですね。けれどもね、絶対のものではなかったということなんです。どんなに言うならば、今の合楽、ここでは創価学会が日蓮宗にその、(こうこう?王国を?)称えとるけれどもです、それは上人様を絶対の方と思うておるから、ああ言うのであって。ね。
なら、もし、その方達が合楽理念を聞いたら、ね、一遍に合楽理念の素晴らしさに、もう、合楽理念の場合は、いわゆる実験したら必ず実証が生まれて来るんです。ね。そして、言うならば、人間が人間らしゅう生きて行けれる手立てというものが、高じられて行く御教えなんです。昨日も福山の支部の方達が、皆集まってましたから、あちらで、ちょうどお話をさせて頂いてことでございましたけれども。
私の部屋に、「真如」という大きな軸が、どっかのお坊さんが書かれた字らしいです。いわゆる、真の如しと書いてある、真如。ほお、真。やっぱ、仏教でも真を言うばいなと思うて、見せて頂いとった。だいたい、真如っちゃ、どういうことじゃろうか、と言いよりましたら、ね、矢吹さんが、私もこれが意味が分からなかったから、この持ち主の方に聞いた、と。
真如とはね、人間が煩悩を外したその姿であり、心であるということだそうです。人間が煩悩を外した時の姿が、真如だと、こう言うのですね。今日、なら、こちらへ私は帰って来ながら、それこそ満月のようなお月様を拝ませて頂きながら思うんです。もう、それこそ昼を欺くような明るさですね。
あれはもう、十数年も前だったでしょうか。昔あの、(素晴らしい?)劇団というのが、これは地方回りをやってますね、お芝居なんです。宗教関係です、いわゆる、(いっとうえん)ですかね、あれは。ね。真如の月という、私はそれが、こう印象に残っとった。ね。
お月様そのものに光があるはずはない訳です。ね。けれども、いわゆる太陽の光を受けて、あの反射する光が、それこそ昼をも欺くような光にもなるように、私どもの心は金光大神が説かれたこの和賀心というのは、ちょうどあの満月の心にも似たようなものですから、神様を欺くような働きも、また出けるということです。ね。ところが、私どもの心は半月さんになって、三日月さんぐらいでも、まあ、ありゃいいけれども、いつも自分の心の中は暮れの闇といったようなことでは、光は受けられない。ね。
そういうね、満月の心。いわゆる、その和の心。真ん丸いお盆ような心なんです。そういう心をです、私どもは、いわば、ね、そういう風な頂き方、そういう受け方が出ける手立てを、見やすう、楽しゅう、有り難く、言うならば説いてあるのが合楽理念ですから、いよいよ合楽理念に取り組まなければね、わからんです、その喜びが。また、実証が生まれて来ないです。
どうぞどうぞと言うて、毎日お願いをするばっかり、お伺いをするばっかりじゃいかんです。なるほど、自分の心がこんな半月さんのような、三日月さんのような、いや、暮れの闇のような心でいくらお願いをしても、よし、おかげは頂いても、過去の金光教と、過去の宗教と同じことです。
やはり、おかげは頂いて来たけれども、ね、和賀心が天地人一如の世界。和賀心が天地日月の心になって行くという生き方。それこそ、和すれば乱れることないという、和すれば。平和の和ですよ。どんな問題でも、それを和して頂くということ。ね。そういう心で頂くけいこを、お互いさせて頂くのです。
その和の心こそが、私はこの満月のような心だと、こう思うんです。ね。だから、それこそ人間でありながら、自分の心の中に、自分で自分をふし拝みたいような心が、これに開けて来るわけなんです。ね。ですからね、その、実験実証するということは、もう、いよいよこのことならば、神様が絶対喜びなさる、おかげ下さるというものがありましょうが。
これは私の、これは、まあ、修行中の時分に、もうどんな場合であっても、御本部参拝だけはお許し頂くもんだ、と。どんな時だって、御大祭の時のお供えと祭典費のお供えだけは、神様がこのように都合して下さると確信が出けるほどしに、間違いなくおかげを頂いて来たんです。他のことは、右と願っても左、左と願っても右というようなことになって来ましたけれども、こと毎月の月参りの御本部参拝と御大祭の時のお供えと、いわゆる祭典費だけは間違いなく、もう、どんな中にあってもおかげを頂いて参りました。
そこで、いわゆる、今で言う、合楽で言う実験実証をして来たんです。ですから、自分の願いそのものがです、御大祭にも、または御本部参拝にも匹敵するような心の内容でお願いをすれば、おかげになる。こちらが、だから、改まって願って行けばおかげになる。こちらが、ね、これはまだ自分の信心が足りんのだと思うて進んで行けば、必ずおかげになるといったような確信が生まれて来たんです。
それが、今日の合楽の言うならばおかげの元になったと思うんです。ね。ですから、おくり合わせを頂いたなら、お参りしよう。ね。御本部参拝、参りたいと思うけれども、今度は旅費の方がといったようなことではね、いつまで経っても本当の実験実証は出けないです。ね。
その実験実証そのものが力なのだ、と。その実験実証そのものが、私はお徳だという風に、今日は先ほど、池田先生の話を聞きながら、なるほど、そういう表現が当たっておるという風に思いました。ね。神様は、何を持って世界一という風に合楽を見ておられるかと言うと、今、合楽で説かれておる、今言う、いわゆる前代未聞と言われる教えそのものがです、ね、それこそ開闢以来のものであって、今、説きに説かれておるけれども、これはもう、私が亡くなった後からはないぞ、と。
今までにも無かったけど、これからでもないぞ。今頂いておかずして、頂く時はないぞ、と。そういう意味で、言うなら合楽の教えは確かに世界一だ。釈迦でもキリストでも、言うなら、まだまだ、言うならば、ね、親鸞上人様がもし、もう、八十になられて、九十になられても、心が本当に助からなかった。ね。
そういう時に、もし合楽理念を頂かれたら、もうそれこそ、その身そのまま極楽往生がお出来になられたのじゃなかろうかという風に、まあ、今日は話したことでしたけれども。ね。だから、そういう話を皆さんが聞いて知っておるというだけではなくて、それを実際にね、皆さんが実験して、実証して、現して行って、それが沢山な言うならば人の実証となった時に、初めて(光?)が光り輝く、いわば道にならせて頂くのではなかろうか、と。この光り輝く道こそが、世界人類の、言うなら世界総氏子身上安全世界真の平和の、言うならば道ともならせて頂くことを、私はそういう内容を持っておるのが合楽理念だと確信します。
だから、皆さんもその確信を持って実験実証をして下さって、ね、おかげを頂いてもらいたい。その、なら、実験実証をさせて頂くにはです・・・(テープ切れ)